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在野の哲学者として

病気の療養のために気候のよい土地を求めて、ニーチェは1889年までさまざまな都市を旅しながら在野の哲学者として生活した。夏の多くはスイスのグラウビュンデン州サンモリッツ近郊の村ジルス・マリアで、冬はイタリアのジェノヴァ、ラパッロ、トリノ、あるいはフランスのニースといった都市で過ごした。

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時折、ナウムブルクの家族のもとへも顔を出したが、エリーザベトとのあいだで衝突と和解を繰り返すことが多かった。ニーチェはバーゼル大学からの年金で生活していたが、友人から財政支援を受けることもあった。かつての生徒である音楽家のペーター・ガスト(本名はHeinrich Köselitz、ペーター・ガストというペンネームはニーチェが与えたものである)が、ニーチェの秘書として勤めるようになっていた。ニーチェの生涯を通じて、ガストとオーヴァーベックは誠実な友人であった。

またマルヴィーダ・フォン・マイゼンブークもニーチェがヴァーグナーのサークルを抜け出たのちもニーチェに対しては母性的なパトロンでありつづけた。音楽評論家のカール・フックスとも連絡を取り合うようになり、それなりの交友関係がまだニーチェには残されていた。そしてこのころからニーチェの最も生産的な時期がはじまる。

1878年に『人間的な、あまりに人間的な』を刊行したのを皮切りとして、ニーチェは1888年まで毎年1冊の著作(ないしその主要部分)を出版することになる。特に執筆生活最後となる1888年には5冊もの著作を書き上げるという多産ぶりであった。1879年には『人間的な』と同様のアフォリズム形式による『さまざまな意見と箴言』を、翌1880年には『漂泊者とその影』を出版。これらはいずれも『人間的な』の第2版からはその第2部として組み込まれるようになった。

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2009年04月28日 06:54に投稿されたエントリーのページです。

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