粘没喝(ねんぼつかつ、女真音:ネメガまたはモティエホ、1079年 - 1137年)は、金の皇族。別名は粘罕、あるいは鳥家奴。中国名は宗翰。初代皇帝の阿骨打の伯父である高宗劾者の孫で、撒改の長子。従って、彼は太祖・阿骨打の従子に当たる。
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従父の太祖の挙兵以来から従い遼遠征に従軍して大いなる戦功を挙げた。1125年(天会3年)もう一人の従父の太宗呉乞買によって左副元帥に任命され、大同に潜伏していた遼の最後の天子の天祚帝を捕虜として、西京大同府を自らの基盤とした。1127年(天会5年)、北宋の徽宗・欽宗父子やその后妃・宗室・大臣達を捕虜として、宋の財宝をまとめて、女真の故地である中国東北部に凱旋した。数年後に将軍として南宋の要害である河南・山東を攻略して占領し、金の領土を拡大させた。同時に本拠地の大同を中心として、華北を統轄し、南宋に対して意欲的に交渉を行ない、かつて北宋の家臣であった進士出身の劉豫を斉の傀儡皇帝とし建国させた。やがて、太保・尚書令・領三省事に昇進し、晋王に封じられる。
1135年(天会13年)に太宗が没すると、族弟の遼王斡本(宗幹)と共に族子の合刺(太祖の孫)を擁立して、太宗の子の阿魯(宗磐・宗本)と族父の撻懶(ダラン、宗昌、穆宗盈歌の子)と対立した。やがて阿魯・撻懶が失脚した。だが、斡本は大同で兵権を持っている粘没喝が目障りな存在となりつつあったので、今度は粘没喝を標的として、その権力の弱体化を図ったのであった。斡本は養子の煕宗に上奏して、粘没喝を太保領三省事という皇帝側近の名誉職に就任させた。こうして、結果的には斡本は粘没喝の軍事権を奪ったのであった。このために粘没喝は軍事権を斡本に剥奪され、次第に憔悴し、1137年(天会15年)秋7月に不遇のままで59歳で病没した。後に熙宗から今までの功績として、「秦桓忠王」の諡号を贈られた。
なお、彼の孫の蕭王・乙卒(秉徳)は1150年夏4月に、阿魯と共に故・斡本の次男である海陵煬王に警戒され、謀反の誣告を受けて、共に処刑されている。
後裔は粘氏と称し、後世の満洲八旗の身分として、江南に移住して、現在も健在といわれる。